昭和40年01月29日 朝の御理解
昨夜、遅うまで、ここの秋永先生が残っておりました。六、七人、まだ残って居りましたでしょう。なかで、こんなお話を致しております。「昨日、一昨日、お店の前に自動車を自分の家の前に止めて、ちょっと家で用事をしている間に、自動車に鍵を掛けていなかったものだから、カバンを取られた」というお話です。ところがその時に先生が感じておることですね、瞬間に、「おかげ頂いたあ」という気持ちだったと。
今までは、お気付け頂いたとか、やられたなとか、そういう様なのがまじっていたのだけれども。今度という今度は、本当に純粋なと言うのでしょうかね。おかげ頂いた。神様が私の為に働いて下さった、という実感だったと言うわけなんですね。高芝さん所であの熊谷さんの話を頂きながらです。「はあ、おかげ頂いておったなあ」と思うたと言うんです。「それでも神様は熊谷の家を中心に働いた」とおっしゃる。
それが感じられたと言うわけです。「成るほど、これだなあ」と。私もおかげ頂いてから、ささやかながらそういう思いで、信心を続けておることが出来ておったということが有り難かった、と夕べ話して居ります。そしたら、あくる朝、必ずフミさん、あのあそこに何とかいうよか犬がおりますもんねえ、犬が。あれを連れて散歩に出るんだそうですね。あそこの後ろに氏神様が、鎮守様が祭ってあるでしょう。あれからこう回りよったげなが、藪の中にですね、お父さんのカバンが落ちとるちゅうわけなんです。
もちろん夜露に濡れてから、寸法帳かなんか、そういうようなものは、じっくり濡れておって、一部のものがまあ出てきた。それから、「そんなら、そこんにきに、いわゆる大事なもんですたい。もうそりぁ在るかも知れんばい。」と言うてから、ばばしゃまがまた回ってきなさったち。そしたらもう、こうすすきの藪があるそうです。藪の中にですねえ、もう何かにこう丁度、傘の下にある様にしてですね。
濡れもせずに、それがそのまま在ったち。成程、梅屋を中心に神様が働いてござったんだけれどもですね、それをやはり頂きこなすとか、キャッチするということは、そういう信心からだと言う事が分かる様な気がいたしますですねえ。先生は、あれでなかなか、始末家なんですね。もう決して、例えば、ハイヤーにども乗る様な事はないそうです。人にはハイヤー代払うてやってでも。
「はあ、これへ乗っていけ」と言ったような生き方の人ですけれども。自分自身は、例えば、服装見ても分かるでしょうが。秋永先生は自分の事はどの位しまって居るかということ。それやら例えば、家内のフミさんなんかは、なかなか派手な豪華好みな女の人ですから。それでも、まあほんとに家内のことは自分のこととして、一生懸命詫びて居られることを、私知っておりますが。
それでも、こと神様のこと、先生と一緒であるという時にはね、最高のことをさして頂こうと思うと言って居ましたですね。そしてそういう時に自分も一緒に、そういう例えばんなら席なら席にはべると言う様な時にはですね、もう許されて最高の贅沢を自分も先生達と一緒にさせて頂いておるということをおもうという様なことも話していました。夕べ休ませて頂きますのがもう一時ごろだったでしょうか。
豊美が二階に上がって来てから、私に申しますんです。「もう今日は勝彦にもうやられた。もうお参りさせて頂いたら、それこそおう涙が出るごとやられた」ちゅうて申します。どういう事じゃったかと。あのこんど光昭が高校に入るんですね。光昭の事をいろいろ尋ねたらしいんです。そしたら、「姉ちゃん、お前達ゃそれでいいと思うかて。親先生のお徳だけにすがって。ご信心にだけにすがって。
お前達はどう言うふうかて。自分達でも、この学校に入りたいと思う時に、入れない時の気持ちをお前は忘れたか」ち。姉ちゃんをつかまえてまあ言うわけなんです。「そんなら、ちっとは光昭の為に信心してやる気はないか。修行でもさして貰うと言う気はおこらんかて。光昭を中心として周囲の者がそうでなからにゃいけんぞ」と。もうそれを聞きながら涙がぽろぽろ流れた、とこう言うんですね。
「ただ神様にお願いをしとるからとか。親先生におすがりしとるからと言うだけではいかんて。自分自身のとにかく一生懸命の努力がなされずして、その結果は、またこれも神ながらと言う様な頂きかたはやめにゃいかんぞと。お前の信心にはそこに欠点がある。」と言うて、大変きつく言ったらしいです。けれどもそのそう言われながらも、それどころじゃないものですから涙はぽろぽろ流れたけれども有り難いと思うた。
してから、自分が勝彦に話して居ることです。「勝彦ちゃん、あんたおかげ頂いとるねえ。最近のお父さんの信心とぴったりあってるよ。」ちゅうて、二、三日前の御理解を話したそうです。勝彦そのことを非常に喜んだ、ということを聞かせてもらいましてから、有り難いなあとこう思うた。「最近お父さんが言われるのは、神様と縦に一文字。同時に横に一文字の一生懸命の努力がなされずしてからです。
ほんとのプラスになるおかげは頂かれん。」と言うとられる。それを聞いて勝彦が非常に喜んだ。お父さんの信心と僕の信心が繋がっておるということを喜んだということです。ね、勉強という努力はせず、ただ神様にお願いしとるけんでと。それは勉強だけのことじゃない。一切のことがそうです。「まあ、ああして先生にお願いして頂いてる事だから。」というてから横一文字の修行が出来ない。
縦一文字の信心は出来ておっても、横一文字の努力も精進もせずしておいてですたい、ねえ、それで神ながらなおかげであるという様な受け方は間違っておるぞと。皆さん。私は今日は秋永先生のそれの、勝彦の最近の信心を聞いて頂いたわけなのです。これは、いわゆるおかげ話じゃ無いんです。皆さんに何を分かって頂こうとしておるか、ということを聞いて頂きたいのですよ。
成るほど私と交流しなくても、神様と本当の交流はなくてもです、お取次を頂いて、お願いをしておかげを頂くということは、おかげを頂いておりますけれども。私がこれは何時も申しておりますようにね、本当にどういうような事からでも良いから、神様と交流したいというのです。例え遠く離れておってもです、やはり親先生の信心と何時もぴったり合うておる。足並みがそろうておるということなんです。
私は、熊谷さんのお取次をさして頂いてからこのかた、何日になりましょうかもうその事ばっかり思い続けておりますもん。私はそれを福岡におって、秋永先生がぴったり受け止めているということ。ね。私は月次祭だけにしかお参りしませんから、やはり勝彦とは一週間会っておりませんけれどもです、私がここ二、三日言うておる横縦の、縦一文字横一文字の信心という様なものがです、長男と通うておるということ。ね。
それはどの様な事から、そうして何時も交流しており、通うておるんであろうかと。親と、または親先生と。どうしてそう何時も交流しておるかと言うことなんです。私は、ここん所に信心が育って、頂けて来るところのおかげ。ほんとにそうした交流の一つのルートです。ね。そのルートを辿って来るところの、おかげであり、信心でなからなければ、本当の有り難さといったようなものは、頂けんのじぁないだろうかと、こう思うのです。それは修行一つでもそうなんです。
神様の心に通い、先生の気持ちにぴったりした修行でなからなければ、私は、本当のことじゃないのじゃないのだろうかとこう思うのです。ね。ですから、そういう信心を私共が頂き、何時もそうして交流しておれれるおかげ頂くためにです、ね、昨日高芝さんとこでも申しました様に、「神と仲ようする信心ぞ」ということが第一条件になって来るのではないでしょうかね。その要素というものが。
「神と仲ようする信心ぞ」と。ということはですね、朝参り夜参りして、なら神様に接近そういう意味合いでの接近と言うことではないということでしたね。神と仲ようする信心というのは神様の心にどうすれば沿うことができるであろうかと言う信心なんです。それが神様と仲ようする信心。ね、これなら神様のご信用が頂けない筈がないでしょうねえ。
それをもうすこし砕いて言うとです、夫婦仲ようする信心ぞ、ということにもなるのです。親子仲ようする信心ぞということにも成るのです。親先生と信者。氏子というのがです、仲ようする信心ぞということにもなるのです。そして昨日末永先生の奥さんがここに頂かれた御理解を思うのです。「神と仲ようする信心ぞということは、主人と仲ようする信心ぞ」ということであった。主人が右と言う。
自分は左と思うけれども、主人がそう言うのであるから、いわゆる亭主の好きな赤烏帽子という気持ちにならんにゃでけんて。理不尽のようである。 不合理のようであるけれども、そこに超合理的なおかげが生み成されて来るのだということ。主人が右といいなさるから右に付いて行った。ところが、こりゃ右の方は違うごとあると言って、主人が回れ右する時に、ほうれ見て見なさいと。
そんな事いうのじゃなくて、自分がむしろ、そうですかと言うて回れ右したら、それでいいじゃないかということ。主人が左といえば左に付いて行く。それが主人と仲ようする信心ぞと。その仲ようするその信心のその事に、神様が感応ましますのだ。神様がいわば、それは合理的ではないようであるけれども、超合理的なおかげが頂けれるんだという御理解だったですものね。
どうも親先生の言う事は間違うとるごとある。先生こっちが本当じゃないですかと。私はこっちへ行きますよ、と言うのではなくてね、例えば、違うとろうが違うとるまいがです、親先生が行きなさる方へ、足並みを揃えて行くということなんです。勿論そこに例えば、その主人なり私なり、ここでいうならばですね、私がワンマンであっただけではいけません。例えば、私がどの様な事でもです。
先ず、総代さんに相談を致しましたり、久保山先生、秋永先生、どげなふうかねと言うてから、いっぺんは先生方の意見を、私は聞く事にしております。その様なわけですれどもです、例えば、主人の言われる通りの事に、家内が付いて行くという、その素直な心に、例えば、その事は間違うておっても、神様はおかげを下さるのであり、神様はご信用下さるのであり、お徳が頂けるのであると言うことです。
そして私が、秋永先生の昨日のお話。それから長男の豊美に話ましたという昨日のお話を、一つ思うて見て頂きたい。勝彦の信心を思うて見て頂きたい。秋永先生の信心を一つ思うて見なきゃいけません。ね。いかに神様と交流しようとしておるかと。いかに親先生の信心と交流しようと努力精進しておるかということ。これは秋永先生の信心を見れば分かりましょう。また私共の長男の信心もそんなもんです。
そこにはです例えば、時間とか空間とかいったようなものはもう無いです。例え離れておってもです、やはり私が思うておることを、一生懸命秋永先生が思いよる。私が致しておる最近の信心を長男が一生懸命精進しておるというようなおかげになっておるでしょうが。そこから交流してくる。例え、そういう意味合いに於いての交流はなかっても、いやそれとは反対の事に成っておっても。
たとえそういう意味においての交流はなかっても、いやそれとは反対のことになっておっても例え先生の信心と言ったようなことは、例えば交流はしていなくてもです、やはりおかげは受けておられるということです。ね。けれどもそのおかげではです、神様の本当のご信用という意味合いのものではないということ。先生が信用して下さるというもの、それではないということ。信用されながらです、信用をより深めながら、おかげが頂けて行くという様な信心を目指さなければですね、いけんのじゃないだろうかと。
それにはどうでもひとつ、お互いがいよいよ神と仲ようする信心ぞと。ただ神様の前に一生懸命修行さしてもろうたり、お参りしたりするということが神と仲ようするという修行、信心でなくてです、神様の思いに、いかに添おうかという事。いかに添わして頂こうかと。いや添わして下さいという、そういう信心をもって神と仲ようする信心。そこには神様との交流がです、始まらない筈は無いとこう思うですね。
改めてひとつです、皆さんの信心が、どういう意味合いに於いて、おかげが頂けておる信心であるかということを思うて見てです、例えば、毎日毎日私の御理解を朝晩聞いて居って下さってもです、交流していない人も幾らもありましょう。そこに精進しない、努力しない。こうすりゃ先生が好いてござる。ねえ。こういうやり方なら先生が喜びなさると。というような事を考えようともしない。
それでは私との交流を計ると言うことは出来ん。それはまあ私と皆さんということになりゃ、そりゃまあ、いうならけちな事でございましょうけれどもです、それならば神様と皆さんということになる時ですたい、ほんとに神様の心に叶う私になりたい。神様の思いに添いたい。ためにいよいよ神様の深い心が分かりたいと言う信心。そうして神様のその深い心に添わして頂いて、はじめて深い、と言うより有り難い信心。有り難いおかげが頂けてくると。私は確信致します。おかげ頂きました。